通信制大学院国際社会開発研究科修士課程 開発基礎論V

  開発基礎論V
 
 これは開発基礎論Vの授業の様子をお伝えするために、2002年度の同科目掲示板に投稿された
 約200の書き込みの一部を抜粋したものです。冗長さを防ぎ、また参加院生の個人情報保護の目的
 から、内容に修正・編集の手を加えてあります。(穂坂光彦)

   このページは以下にまとめてあります見出しごとに、ご覧ください。
 
 
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   No.2 (2002/05/01 22:29)  期待と不安
   Name: P
 
  はじめまして。Pと申します。穂坂先生の座っていらっしゃる円卓に、一番乗りします。
開発援助NGOで非専従の事務局長をしています。
本業は高校教師です。英語の教師ですが、今年はおもいっきり開発教育やっています。
あれもこれもとりたくて間に合いそうもないので、最初はこの科目はとらないつもりでいたのですが、
テキストを読み始めてみたら、その面白いこと・・・。
好きな分野の、好きなことがとてもまとまっていて、読んでいるだけでウキウキしています。
高校生への授業に直接反映させながら、勉強を続けられそうです。よろしくお願いします。
 
開発教育  No.2No.29No.30No.38 No.41
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   No.29 (2002/05/21 00:51)  発言1
   Name: P
 
  しまった、今週いっぱいの面倒な仕事を抱えてるんだった・・・と思い出しても後のまつり、
今週のまぬけなボランティア、Pです。よろしくお願いします。

僕は高校の現役教員でもありますので、とっかかりに自分の授業の話をします。
貧困と飢餓の問題について簡単に扱った次の時間、「きょうはおみやげがある」と言って飴を取り出します。
そして、いかにも適当な感じで、たとえば4人の生徒をまず呼び、ひとりあたり14個づつあげます。
この日だけはおみやげなのでその場で食べていい、と言って喜ばせ、次の8人に、ひとり3個づつ。
そして残りの人、18人に並んでもらったところで袋をのぞいて、あれ、配り間違えた、
あと10個しかなくなっちゃった。ごめん、これみんなで分けて。
そして、前回の続きの開始です。

お分かりのとおり、これはテキストにもあるハンガーバンケットの簡易版です。
が、一切関係なさそうにやるところがみそです。当然もらえなくて怒り出す生徒もいますので、
それには謝ります。そして、たくさんもらった人、分けてあげて、と言っておきます。

その日の教材は、世界の食料の偏在について、というようなもの。
僕は英語の教師なので、読解が主になります。そのうちに気づく生徒が出てきます。
そういう生徒には目配せをして、そっと説明をしてあげます。あくまでも全体には言いません。
そうすると、気づいた生徒はうれしくて、その秘密がだんだんと広がっていきます。

その時間の最後にようやく種明かし。1個ももらえなかった人に手を挙げてもらい、
きみたちは飢えで死んでいたかもしれないね、1個だけの生徒は飢えで苦しんでいるんだね、と言います。
そして最後に、ひとりあたり3個あったことを説明、14個もらった生徒がいくつ分けてあげたかを聞きます。
普通は半分がいいところです。

なかなか気づきの授業として面白いと思っているのですが、これにはオチがあります。
ある開発教育関係の研修でこれを紹介したところ、中学3年生の次男の学校の先生が授業でやったのです。
受けてきた次男は、出所が僕だとは知らずに、なにをしたか説明してくれてから、こう言いました。
「こういう授業っていやなんだよな。こんな風にすれば分かってくれるかなって先生がわくわくしてる感じが、
はめられたみたいですごくいやだ。」学校教育の限界かな、と思った瞬間でした。

では、みなさんご発言お願いします。
 
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   No.30 (2002/05/21 12:38)  開発教育について
   Name: O
 
  ハンガーバンケットについては、知らなかったので興味深く思いました。
一方で、ゲームの終わりにわかるのは、世界には貧富の差がある、と言うことです。
ここで終わってしまったら、「貧しい人はかわいそうだから、何かをあげる」という子供達を
増やす結果になるのではないでしょうか?

テキストでは、学生が「開発」と「援助」の区別せずにいる、と言う例が示されています。
また、このような「貧しい人を助けてあげる」のが開発と考える現象を「してあげる」シンドロームと呼んでいます。
少なくとも、この大学院に入った人で、「してあげる」だけで援助できる、と考えている人はいないと思います。

「開発」教育と銘打っているからには、「援助」ではなく「開発」を教えることができる教材作りを
していかなければならないと思います。何かを「してあげる」だけでは、貧富の差を無くすことは難しい、と
いうことを教えるゲームも作られるべきではないでしょうか?
 
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   No.38 (2002/05/22 19:10)  してあげるシンドローム
   Name: 穂坂光彦
 
  みなさんの意見を聞きながら、私のテキストの書き方が曖昧だったと思う点があったので、口を挟みます。
「してあげるシンドローム」はテキストにあるとおり、斎藤千宏さんの造語です。

「してあげる」を口にする学生の問題の第1は、「してあげる」の持つある種の「愛他性」が
現実の「援助」につながっている、と錯覚していることです。
だからインドのストリートチルドレンの写真に衝撃を受けて「なんとかしたい」と「開発」を志す、
そのことがとりもなおさず「援助」について学ぶことになってしまいます。
国同士で外交戦略として行われる「援助」を、そのような目で分析することは、まずできないでしょう。
Pさんの生徒たちの中には、自分よりも不運な友人に同情して思わず飴玉を分けてしまった、と
いう人もいるでしょう。
分けないといけないんじゃないかと無言の圧力を感じたり、
適当に分けておかないと教室の中が険悪になってかえって厄介だと洞察したり、
やっかみや復讐をおそれたり、個別の友情が崩壊するのを防ごう、と考えた生徒もいるでしょう。
グローバルなゲームの中での各国の戦略を分析する冷徹な目で「援助」を学ぶ方が、
はるかに有益なはずなのですが、それ以前に、「してあげる」の心をもった人たちが行うのが援助、と
思いこんだところで止まってしまう先入観、これが私たちが教育現場で立ち会う問題の第1です。

しかし人間には、自己の福祉向上のみでなく、他者の向上をも願い
そのように行動する「エージェンシーの自由」(テキストp.167)も存在します。
そのような人間の主体性を、恣意的な同情としてでなく、行為責任を支えるものとして
成り立たせるには何が必要か。
インドのストリートチルドレンの状況を歪みのない社会的パースペクティブの中で理解し、
その中で自分自身の立場を位置づけ、自他の関係の変化を展望するような学び方、でしょう。
そのような点にこそ、私たちは、「開発」を学ぶことと、開発教育的実践との深いつながりを感じています。
これは実は「学生たち」の問題ではなく、私たち一人一人の問題に他なりません。
「してあげる」シンドロームの第2の問題は、そこには「変わるのは私たち」の視点が
最初から遮断されているように思えることです。
 
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   No.41 (2002/05/25 14:57)  「してあげられる」と、第1部で得たこと
   Name: B
 
  第T部についての意見交換に参加させていただきます。

まず、「してあげるシンドローム」について。H国で貧困層への家畜巡回診療を行っていた時の経験です。
所属団体は動物福祉団体ですので、動物福祉の目的から、市内数箇所の巡回対象地域の家畜に
欧米式の治療を無料で行う、「してあげる」診療でした。
ボランティアも含めた欧米人中心のメンバーは、動物に「してあげる」ことに疑問をもちませんが、
中に数人、家畜の飼育者である住人に「してあげる」ことの誤りを指摘する人間が出現しました。
また、巡回先の住人の中からも、無料の欧米式の治療を拒否し伝統的治療を自ら行うことを主張する
人間が出てまいりました。2つに共通していたのは自立を大切に思う気持ちだと感じました。
私自身はこの活動により帰納的に得たものがあったればこそ、今ここで学び始めているわけですが。
我々日本人は自らの自立をあまり意識しないで生きていける社会にあり、相手を自立したもしくは
すべき人間だと考えるのが苦手なのではないか、それを引き出すのが開発教育の目的の一つか、と
思うのですが。

次に、第T部で私が最も強い印象を受けた章について。
4章「福祉と「社会開発」」でミッジレイ博士は北側福祉国家のたどるべき道について
野心的な意見を述べられています。
つまり、「アフリカやアジア」で経験が蓄積されてきた社会開発こそ北側福祉国家の再建に
有効な手段を与える、と。
政府による組織的枠組みや予算配分により、個々人の潜在的能力を高めるような投資を行い、
地域の経済発展に資することで社会福祉目標を達成することが出来るとされています。
私は開発教育とは各々の知識の容量を増やし、今の日本の教育、社会制度では
高められない能力を伸ばし、各人の周囲を変えていく為にあると考えており、
その先には社会開発そしてそれによる福祉国家の再建があったのかと
それこそ視野が広がった思いです。皆さんの意見もお聞かせいただければと思います。
 
〔開発教育〕  No.2No.29No.30No.38 No.41
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   No.43 (2002/05/26 11:39)  
   Name: N
 
  No.30のOさんの
「貧富の差を無くすことは難しい、ということを教えるゲームも作られるべきではないでしょうか?」
という質問に関して、ハンガーバンケットに似たゲームに参加したことがあり、紹介したいと思います。
もう、7年も前のことになってしまいますので、記憶がさだかでないところもありますが。

参加者は大学生100人程度、6名ほどのグループに分けられました。
そして、紙(A4)、はさみ、定規、コンパスなどが各グループに配られました。
目的は、丸、四角、三角といった「形」を生産し、ポイントを得ること。
生産した「形」が規格に合っているかどうか、判断する先生がいて、規格に合っていれば、
生産したグループにポイントが加算されます。

面白い点は各グループに、紙やはさみが均一に配られないこと。
紙だけが10枚もあるグループ、紙は1枚のみで、はさみと定規とコンパスもあるグループ、と
様々な条件のグループがありました。
ただし、紙やはさみなどの道具の交換は自由に行えます。制限時間内に多くの「形」を生産し、
多くのポイントを得たグループが「勝ち」というものだったと記憶しています。

私は、紙だけが10枚ほどのグループにいました。
初めは、道具がないので、なすすべものなく様子を見ていましたが、紙と交換に定規を
手に入れることに成功し紙を切るための線を引くことができました。
しかし、はさみがないと紙を切れません。
そこで、今度は紙を他のグループに提供し、10分ほどの時間を決められて、
はさみを借りることになりました。いくつかの形をつくることに成功しましたが、
はさみを返す時間になると、もう生産はストップしてしまいました。
結果的に、私たちのグループは「最下位」だったと思います。
「1位」となったのは、紙もいくらかあり、道具もあったグループだったと思います。

当時は、面白いゲームだなぐらいにしか思っていませんでした。
「最下位」だったことは、面白くありませんでしたが。
しかし、今、思い返すと「してあげる」という意識は私たちの中には無かったように思います。
それぞれのグループが、多くのポイントを得ようとしており、他のグループを助けるという意識は
なかったように思うのですが、これは自分が紙しか持っていないグループにいたからでしょうか。



[Re.1] P (2002/05/26 17:27)>
神奈川県国際交流協会が紹介した、貿易ゲームというゲームですね。
もとはイギリスのクリスチャンエイドがつくったものです。
もう十年以上前のものなので、現実を反映させようと開発協議会という組織を中心に改訂作業が行われ、
債務とか援助とか、いくつかのバージョンの入った改訂版「新貿易ゲーム」が昨年出され、
神奈川県国際交流協会で手に入ります(旧版は絶版です)。
ただ、シンプルで分かりやすいという点では、最初の版にもいまでも価値があると思います。


[Re.2] C (2002/05/26 23:02)>
この最後の「してあげる」という意識がなかったのは、紙しか持っていないグループにいたからって
言う発言は興味深いです。


[Re.3] O (2002/05/27 10:13)>
そうですね。資源があってもそれを有効に使えない途上国を象徴しているみたいですね。


[Re.4] P (2002/05/28 00:55)>
この貿易ゲームは、企業研修にも使われています。
ウィルシードという会社で、設立者は開発教育にもともと興味を持っている若い人のようです。
http://www.willseed.co.jp/
 
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   No.46 (2002/05/27 21:13)  開発教育にゲームなどを利用することについて
   Name: 雨森孝悦
 
  開発教育ではゲームやロールプレイなどの参加(擬似)体験型学習の技法がよく使われます。
1990年代以後は人権教育で「流行」といってもよいほどになりました。
たしかに、それらはわかりやすく、学習者にも概して好評ですが、
実世界をパタン化してしまうだけに、ゲームやシミュレーションだけで満足してしまうと、
Yさんの指摘するように危険性があります。

ラテンアメリカなどで「意識化」の手段として使われたロールプレイは、
学習者の痛切な生活体験がベースにあったので、体験したことの本質を理解し、
自己表現をするうえでロールプレイが役立ったのだと思います。
実体験のないところで、ロールプレイだけに頼るのは、上滑りになるのでは、という気がします。
 
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