通信制大学院国際社会開発研究科修士課程 開発基礎論V

  開発基礎論V
 
 これは開発基礎論Vの授業の様子をお伝えするために、2002年度の同科目掲示板に投稿された
 約200の書き込みの一部を抜粋したものです。冗長さを防ぎ、また参加院生の個人情報保護の目的
 から、内容に修正・編集の手を加えてあります。(穂坂光彦)

   このページは以下にまとめてあります見出しごとに、ご覧ください。
 
 
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   No.141 (2002/07/04 02:51)  民際協力の<行商人>
   Name: Q
 
  テキスト第28章「民際協力の行商人」

「他の地域と交流しながら住民が変わり、介在する外部者も変わる、そういう互いに学びあう<場>を
作ることこそを重視する「プロセス」アプローチの思想」のあたりを読んで、心理学を勉強していた頃に
少しだけ調べた「盲僧の語り」を思い出しました。
盲僧とは、村々を廻って読経をするなど宗教的活動に特異な才能を発揮して職業としていた人たちです。
盲僧は建前上は宗教活動に重点を置いていましたが、村々を廻って法要をする際に、宿泊先などで請われれば、
唄を歌ったり昔話や軍記物を語ったりなどの芸能者としても機能していたそうです。
彼らは徳川幕府の機構である当道座との争論に敗れ、その後一切の芸能活動を禁止されるのですが、
実際には訪れる村々での軍記物や昔話の語りは需要が高く、ひっそりと続けられました。
彼らの語りの練習は、文字化されたテキストがない分、師匠や他人の語る様子を聞いて
せりふやストーリーを覚えるのが基本で、その後に独自の節回しや表現の選択を重ねていくそうです。
面白いなと思ったのは、その独自性を打ち出すときに第一に参考にするのが、聞き手の反応だということです。
ここからは想像になりますが、読経や祈とうなど宗教的活動を建前としていた彼らは定期的に同じ村を
訪れる必要があり、また移動手段が徒歩ということもあって、数年かけて一巡するようなペースで
いくつかの村々を定期的に巡回します。その間に得た複数の村の聞き手からの様々な反応をもとに修正が重ねられ、
各自の独特な「語り」が作られていくのです。
また、村の聞き手にとっては、何年かに一度やってくる盲僧の「語り」の変化から新しい芸能の流れを読みとり、
村の外からの情報を吸収する手だてとしていたのではないかと思います。
そうだとすると、このころの芸能は今のようなメディアの商業的操作で意図的に作り上げられるものとは
対照的な、聞き手と語り手の相互作用によって出来上がる性質のものだったのではないかと思います。
後者の方が断然面白そうです。
横道に逸れましたが、盲僧という外部の世界を少し知っているヨソモノの立場、
そして彼らの介在によって村の外部の情報を吸収していく村の人々の立場、双方が互いの反応を
取り入れつつ学び、変化していく状況を想像すると、現代の私(達)の関心への参考になりそうだ、と思いました。
 
ヨソモノの役割  No.141No.176No.179
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No.163期末レポート     .
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   No.163 (2002/07/12 11:06)  どうぞ続けて下さい
   Name: 穂坂光彦
 
  今週はみなさん同士で意見交換していただきたく思いますが、何点かコメントします。


No.141 Qさんへ:
来年のテキストから「行商人」をやめて「盲僧」にしようか、と思いました。
既定の「プロジェクト」を念頭に置いて地域にやってくる援助専門家ではなく、
言葉の端々から問わず語りに情報を伝えて結果的に相手の主体性を引き出す<行商人>を、
ひとつの<開発ワーカー>のモデルと考えていたわけです。
でも、聞き手の反応によって語りの内容そのものが変わって、それがまた他の土地に伝えられていく、と
いうメタファーの方が、より正確に「プロセスアプローチ」の本質を突いていると思います。
そのようにして人々の中に紡ぎ出されていくものが<開発>であると、私は考えています。
それがこの開発基礎論IIIの私のいわば結論のひとつです。
もちろん、みなさんそれぞれの結論があってよいのですが。

No.160 Oさんへ:
テキストでこのガンディーの話を書いているとき、ちょうど私は大学所在地の町にある中学で
総合学習の講師を頼まれていました。
その中学三年生は、世界の国旗のデザインと国の歴史とを調べてきて、
その最後に私を招いて下さったのです。
私は「開発教育」の素材として、このガンディーの話を使おうと思いました。
最初に大きなインドの国旗を拡げ、その三色の意味と、中心の図柄について質問しました。
それから、非暴力闘争からガンディー暗殺までのビデオを見せました。
そしてガンディーがチャルカに込めていた反「近代主義」的な社会像とはどういうものだったろうか、の
講義をしました。長島さんが指摘されたような現代的意味を、中学生も感じ取ったように思います。
開発基礎論IIIは一応「開発教育」のクラスですので、ご参考までに記しました。

No.162 Cさんへ:
Cさん「でも「子供達の置かれている状況をいい方向に持っていく」ことをある意味「開発」と
捉えることにしました。(勝手な解釈ですけど)」。
「子供達の置かれている状況をいい方向に持っていく」ことは、私は、対人援助とか海外援助とか
言われる場合の「援助」の範疇にあると考えています。
「子供達<が>その置かれている状況をいい方向に持っていく」こと、あるいは子ども達が
そうできるための環境条件をつくりだすこと、が、開発教育とか社会開発とか言う場合の「開発」に
あたるでしょう。(勝手な解釈ですけど)。
 
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No.163期末レポート     .
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   No.176 (2002/07/21 14:12)  テキスト7部へのコメント 沖縄の保健医療改善から
   Name: B
 
  こんにちは。書き込みが出来ない日が続き半分あきらめておりましたが、
自由に書いてよいとの穂坂先生のコメントがありましたので、第7部についてコメントします。
その前に、Tさんが書いていらした調査者としてのアグネスの姿勢に強い印象を持ちました。
売買春に携わる少女たちと話をしたとき、結局彼らの作った手工芸品をほめることしか
出来なかったのを思い出しました。どうしていいかわからなかったのです。

よそ者効果:
第25章「参加する研究者」p216で「開発ワーカー」の「よそもの」としての役割に
ついて述べられていますが、最近調査が進められている戦後の沖縄での保健医療開発における
よそもの効果について書きたいと思います。
沖縄は戦後GHQ、高等弁務官監督下の琉球政府による統治のなかで、
保健衛生、医療状況の改善を行い、一定の効果をおさめました。
その中で「開発ワーカー」的な役割を果たしたのが、アメリカ政府から派遣されていたワニタワースという
看護教育の専門家でした。
彼女は「公衆衛生看護婦駐在制度」という途上国でいうVillage Health Wakerを生みだし、
人材を発掘し、教育し、制度の維持や公衆衛生看護婦の身分保障のために上に働きかけ続けたといいます。
「公衆衛生看護婦」第一期生であった金城さんや中里さんは、ワニタワースから講義の最初に
「ある地域の衛生状態が悪いのはそこの公衆衛生看護婦のせいです」と叱咤され、
「住民への奉仕」と「仕事への誇り」を身に付けたとおっしゃっていらっしゃいました。
この他、医者の免許を持たない医療者「医介補」を離島医療の従事者とするなど、
既存の制度に縛られていては実現できない改革があって、地上戦から本土復帰までの
大きな保健衛生上の改善があったそうです。ここではワニタワースたちが、
地域のニーズを住民及び行政に気づかせるファシリテーターとして、
またニーズにあった制度を、既存の制度の中で作り出していくアドバイザーとして、
さらには人を集めるための人寄せパンダとしての力持っていたと思われます。
そこには「共に学ぶ」姿勢があったからこその成功であり、
穂坂先生の往復書簡にあった「4つの課題」(テキストp.221)に通じるものかと思いました。

よそ者として民際協力の行商人:
テキストの<行商人>、Qさん記載の<盲僧>、どちらも興味深く拝見しました。
昨日帰ってきたので沖縄ばかりで恐縮ですが、沖縄の経験をきちんと形にして伝えることできれば
その活動の主体となったヒトと交流することもひとつのネットワーキングかなと思います。
沖縄だけでなく日本の戦後の開発を掘り起こして記録しておくことも<行商人>の仕事かもしれません。
さらにいえば、ゴミの問題、汚水雑水処理の問題など、日本も途上国も実は同じくらいの
大きさで抱えている問題を、交流しながらお互いに学びあう必要が我々日本人にこそあるのかも知れませんね。
ヘリポートはあるけれどゴミ処理場を作る予算がとれない離島の現状に、
途上国へのアンバランスな援助と似たものを感じました。
 
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   No.179 (2002/07/23 12:35)  No.176
   Name: 穂坂光彦
 
  176のBさん こんにちは。
戦後沖縄での保健医療開発について、盲点を衝かれる感じで興味深く読みました。
ただ、こうした貴重な情報が、あなたが探索された資料によるのか、
沖縄での現地聞き取りの結果なのか、といった点を、もう少し分かりやすくして下さい。
もちろん、調査途上の場合、ソースを明らかにしにくかったり、明らかにすべきでない、という
可能性もあるでしょう。それを識別しながらも、できるだけ論拠を明らかにしてほしいと思います。

これは、この講義はもうすぐ終わりになりますが、今後他の科目で議論される際にも、
みなさん全員に留意していただきたいことです。
講義室での投稿は、情報交換以上に、ある種のtrainingですから、「何が真実か」ということとともに、
「どうしてそれを真実と主張できるのか」を、分析的に書くよう努力して下さい。

以上は、原則論です。
ときには、「こんなことを耳にしたけど」というお喋りがあっても、もちろんかまいません。
が、Bさんの投稿は、真実を伝えたい、という意欲にあふれていたので、むしろ表現方法に注文しました。
 
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No.163期末レポート     .
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   期末レポート (2002/08/21 20:48)
   Name: T
 
  タイトル「内発的発展のカタリスト」(第28章「民際協力の行商人」に関連して)

「開発教育」テキストの「民際協力の行商人」に関連して、
掲示板でのQ氏の<盲僧>の提示は大変興味深いものであった。
<行商人><盲僧><放蕩息子>など、内発的発展における触媒の役割をここで考えてみたい。


1.内発的発展における<行商人>と<盲僧>の役割

「開発教育」テキストの「民際協力の行商人」章で、著者である穂坂先生はJ.ガルトゥングや
D.グーレの引用をしながら、内発的発展におけるヨソモノの役割という問題を提起している。
そのヨソモノは「地域の人々が自分たちの経験を振り返り、自発的に新しい開発方法を
考え出して生活条件の改善を始めるきっかけ」を提供する触媒(カタリスト)としての役割をもつ。
テキストでは、<行商人>が外からやってくるヨソモノもしくは触媒として情報や経験を水平的に媒介しつつ
相対化する役割を担うものとして、また自らの地域社会を飛び出して波風にもまれながら
外の世界を見聞して帰ってきた<放蕩息子>を内から発生する触媒(カタリスト)として
内発的イニシアチブを引き出すきっかけを果たすこともあると述べられている。

内発的発展における触媒の一例として、Q氏は<盲僧>というカタリストを提示した。
Q氏の説明によると、盲僧とは村々を廻って読経など宗教活動を行っていた人たちで、
建前上は宗教活動に重点を置いていたが、村々で法要の際、請われれば芸能者としても機能していた。
盲僧らの語りは文字化されたテキストがない分、師匠や他人の語りの様子を聞いてせりふやストーリーを
覚えるのが基本とし、その後節回しや表現方法を聞き手の反応を参考にしながら独自の表現を重ねる。
そしてQ氏はさらに、村の聞き手は何年かに一度やってくる盲僧の「語り」の変化から新しい芸能や
世の流れを読みとり、村の外からの情報を吸収する手だてとしていたのではないかと推論している。

ここで、<行商人>と<盲僧>の役割を表1で整理してみたい。
(略)表1で見るように、<行商人>と<盲僧>は地域を訪れる主目的が商売と宗教的活動との
違いがあるが、ともに外からの情報を伝える外部者としてとらえることができる。

しかし外からの情報伝達手段およびその内容が、<行商人>と<盲僧>では異なる。
前者は語りによる商売や社会経済的な事項、後者は芸能による歴史的、社会的、宗教的な事項と
推定される。訪問先地域の聞き手の反応によって変化する<盲僧>の宗教・芸能活動の方が
<行商人>の経済・世間話活動より、より地域の人々の歴史感覚を研ぎすまさせ、内的インパクトを
強める可能性は多いにあり得る。

だが<盲僧>の活動が、実際に地域社会発展のための住民の内的イニシアチブを導き得るか
どうかは、必ずしも自明ではない。なぜなら宗教や芸能は、内的イニシアチブを刺激することもあろうが、
同時に苦悩を慰撫する役割を果たし、現状改善ではなく現状維持を促進する場合も多いからである。
現状改革のための内的イニシアチブに発展するかどうかは、語り手の意識にもよるであろう。

また<盲僧>という職業が視覚障害をもち、かつ宗教活動の技能を身につけるという特質をもっているため、
一般的な職業であるとはいえない。メタファーとしても、内発的発展の触媒(カタリスト)となりうる主体は、
ある特質をもった特定の人に限定される職業よりも一般的に開かれている職業を想定したほうが、
民際協力を内発的発展の触媒へと導く可能性を高める。

さて、上記に述べた<行商人>も<盲僧>も内発的発展における外からの触媒である。
これに対し、私はかつて読んだ『秩父事件 自由民権起の農民蜂起』(井上幸治著、中公文庫、1968)を
思い出した。そこでは、中心人物は内から発生した触媒であったのだ。
次項では、内発的発展が農民蜂起という武装闘争に発展して制圧されてしまった秩父事件と、
内からの内発的発展が非暴力、不服従の小作争議として展開し大地主に勝利した
南畑小作争議(渋谷定輔著『農民哀史から六十年』岩波新書、1986)の比較を試みたい。


2.秩父事件と南畑小作争議における「内からのカタリスト」

まず簡単に秩父事件と南畑小作争議の概要を説明する。
秩父事件は1884年、明治17年11月悪徳金貸や政府の悪政を批判し、
貧民の救済を訴えておこした日本近代史上最大の農民蜂起である。

もともと山間の秩父郡一帯は、山繭を中心とした養蚕製糸業の地場産業が盛んだったが
横浜開港により輸出向けの良質の絹により高価がつけられ、明治15年ごろからの
深刻な不況による増税によって多くの農家が高利の借金の返済不納におちいり、破産に瀕した。
1884年2月、秩父での自由党結成がきっかけとなり、
養蚕製糸で交流のあった周辺村落部の農民らも加わり、
新たに秩父困民党が結成され、武装闘争で解決の道を探ろうとしたものである。
なお武装闘争は政府軍によって鎮圧された。
一方、南畑小作争議は1923年(大正12年)に現在の埼玉県富士見市にあたる
南畑地区農民約200名が不在大地主である西川武十郎(西武)に小作料引き下げを要求するために
非暴力、不服従でストライキを起こし、大地主に要求を飲ませることに成功した。

次に秩父事件と南畑小作争議とにおいて、触媒(カタリスト)は誰であったかを見てみよう。
秩父事件においては、触媒は行商人ではなく、内から出た生産者兼仲買人だった。
しかし商売を通して外の地域の情報を伝達するという意味では<行商人>に近い職業人で
あったかもしれない。
当時、秩父地方では地域住民らの職業が技術や資本を要し、換金性の高い養蚕製糸業で
あったため、市場と生産地を行き来する仲買人的存在が必要だった。
当時の主な市場である東京や横浜が比較的遠隔地でなかったからか、
秩父地方出身の仲買人が市場と生産地を行き来した。
そして東京や横浜で見聞する自由民権運動やその思想に関心をもった秩父出身の生産者であり
仲買人であった数人がまず自由党に入党する。
こうして自由党の自由民権思想が秩父地方の農民にもたらされたのだが、
秩父地方農民は決して中央自由党の下部組織として運営されることはなかった。
その証拠に、中央(東京)から秩父にやってきた自由党勧誘者は
「あに図らんや、これらの徒みな自理を解せず、主義を持せず、主義を持せず、無気力、無志操、
ともに事を談ずるに足らんとは」と差別的見方をして早々に去るのである。

その後、住民たちは表立った集会を行わず、賭博をしながら村の衆が集まり情報交換と議論を重ね、
当時厳しくなりつつあった官憲の目を誤魔化した。博徒が天下国家を論じ、
緻密な作戦を練る構図は、地域住民独自の方法による参加型集会とも言えるだろう。
秩父地方の困窮した農民たちは自ら困民党を組織した。
しかし現状改善の矛先は粘り強く交渉を重ねる形ではなく政治改革を意図する武装闘争に
収斂していった。結果、政府軍に制圧されて秩父農民蜂起は終焉する。

一方、南畑小作争議では、農業に明るい将来を見出せずに文学や都会にあこがれて17歳で村を出、
親に説得されて出戻る<放蕩息子>的な一青年が触媒(カタリスト)の役割を果たした。
この青年が『農民哀史から六十年』の著者渋谷定輔である。
渋谷青年は出身農村に出戻った後、村の大人たちに呼びかけて、小作料引き下げ交渉に
ついての集まりを組織する。
渋谷青年は、他地域でも小作争議が多発し、成功している情報を入手していた。
また東京では『女工哀史』を執筆した細井和久蔵氏らとも交友関係をもち、疲弊する農村に
端を発する社会問題を見る視点を交友と独学で養っていた。

南畑小作争議は秩父事件と違って、武装闘争の形態をとらず、大地主の土地を耕作しない
というストライキを行った。
そして地元役人や警察などと交渉を重ね、結果的に味方につける方法をとり、非暴力・不服従作戦
と交渉型を組み合わせて、最終的に大地主を根負けさせた。
南畑小作争議が武装闘争に発展しなかったのは、リスクを伴う急激な変化を好まない
南畑地域住民の農民的気質が一因であった
(一方の秩父地域住民は、養蚕製糸という投機的な農業兼軽工業労働者的気質)。
さらに、南畑小作争議発生当時、南畑地区の北部を流れる荒川の河岸工事という日雇いの
現金収入の仕事があったため、闘争の持久力があったとも思われる。


3.民際交流が内発的発展を促す可能性

上記では、外からの<行商人>や<盲僧>、また内からの<仲買人>や<放蕩息子>などの
カタリストが、地域住民の内的イニシアチブを引き出し、
内発的発展の契機になりうる可能性を、歴史的事例から論じた。
では現代の内発的発展に対して、民際交流はカタリスト的役割を果たし得るのだろうか。

上で述べたカタリストたちが地域住民に伝えたものの共通項を見ると、
それは「情報」、「事例」、「思想」(仏教思想、自由民権思想など)と言える。
情報や事例、そして思想が体現化されたとき、人は内的イニシアチブを発揮し、
内発的発展に展開するのではないだろうか。「思想」というと何か堅苦しく、
教条的なにおいがついてまわるが、基本的には
“人が人として存在することを自他ともに認め、安全でよりよい生活を個人と地域社会が求めてもいい”
という基本的人権のメッセージである。
現代の民衆(地域住民)の国境を越えた交流が内発的発展の契機となりうるような
イニシアチブを導き出すために必要なのは、的確な情報、洞察を与える事例、
そして体現化した基本的人権という思想、の三要素ではないかというのが私の結論である。
 
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